若者は荒削りが良いと口では言いながら本音はそうではない(いわば、逆らうことのない従順な若者を好む)大人が巷では大半だとの話をわたしは後輩に対して時々しますが、そういう意味では当時の早稲田の職員達には生意気な学生を封殺せずにそれなりに「様子を見てやろう」という気概があったように思います。わたしも既にエイズ啓蒙イベントを他でやっていましたから、決して生意気だけではなく、それなりに的を射た批判をしていたとは思いたいのですが、社会人になってみてこのようなエピソードが如何に稀であり貴重かを痛感しています。その後は関係者の皆さんなら良くご存知のように、当時学生生活課の坂上課長と石川部長に紹介され「君がそのイキの良い学生か?」といったような雰囲気で実行委員会に迎え入れられるとすぐさま企画を手がけさせてもらい、翌年1995年には2日間で2千人、1996年は1日で2千人の観客を動員しました。最終的には東京都と早大の共催エイズイベントを1995年に実現した功績が評価され、当時総長だった奥島さんより学生の仲間と共に早大総長賞を受賞しました。クーンは、そういう意味で、クーンが組織された1996年以前よりエイズ啓蒙活動で実績を既にあげていたことになります。
1997年からは後輩が完全に跡を引き継ぎ、大学との協力関係を維持しながらも学生の主体性を強める形で、例えば外部スポンサーを募るなど、新たな成長を遂げていきました。ただ時代や表現のスタイルが変わっても、チャレンジ・エイズの基本的な性格は変わっていないように思います。クーンという組織がチャレンジ・エイズを通して成長してきたことを考えますと、これはクーンの性格とも言えるかもしれませんが、それを簡単に言いますとイベントという手段に対して絶対的な自信と信頼をもっているということでしょう。すなわち、心の底で考えている自分の思いが果たして正しいのか、または間違えているのかを教えてくれるのはいつもイベントだったということです。基準は簡単で、国民の多くが支持するメッセージを前面に出した社会イベントならば多くの人間が参加・協力し、自己中心的で全く独り善がりの域を出なければ一部友人と恋人くらいしか参加しませんでした。イベントというスタイルほどその答えをビビッドに、そして何よりも肉感的に体感をしながら教えてくれるメディアは存在しませんでした。
わたしの場合、家庭に両親がいればまた話は違うのでしょうけど、正直言いますと誰も何が正しいかを教えてはくれなかったので、それこそイベントから教わることが本当に多かったわけです。ただ、クーンは別にそういった人間だけでなく、ある意味、自分の家族や友人、恋人だけの間で試してきたロジックや感性を最早内輪だけで確認しあうことの空しさに嫌気がさしている学生も多かったです。ですから、チャレンジ・エイズの企画段階にはいつも当事者である感染者や患者、さらにはリスクの高いと思われる性産業労働者に参加してもらい、彼らを目の前にしながら持論を披露することで、時には激しく批判され、または強く同意されることで、一般客の集客・動員とは違った快感と成長がそれこそ体感できました。そういう意味で、チャレンジ・エイズをやり続けることで、必然的に事の善し悪しが必ずしも客の動員数だけでないことが明確になってきまして、人数が少なくても関係者や参加者が死ぬまでその問題を語り継ぎ、行動し続けるようなイベントの重要性もやがて理解していくことになりました。
チャレンジ・エイズと大貫さん
そんなチャレンジ・エイズ、さらにはクーンの根幹を構築する上で決して忘れることができない人物がいるので、その人の話しをなるべくリアルにしてこの原稿を終えたいと思います。その人物とは血友病患者であり、大阪HIV訴訟の原告でもあった大貫武さんです。わたしは既にその年齢を超えておりますが、大貫さんは若干30歳でこの世を後にしており、このような機会がある時はいつも彼の話をさせてもらっています。というのも全ての組織には、その組織内で語り継がれてきた真実の歴史があり、その歴史は決して現在の多数派に受け入れられていなくとも、いつかは主流に取って代われるだけの輝きを発し続けております。大貫さんの生き様とは正にその良い例といえるでしょう。
大貫武さんが薬害エイズで死去した日(1996年6月22日)、彼は都内の病院の地下にある霊安室に安置されていました。いまでも当時のことをハッキリと覚えていますが、上階にある彼の個人病室から「大貫」と太文字で書かれたプラスチックのタッパーや衣類などご家族と一緒にすばやく段ボールに片づけ車に乗せると、霊安室に向かいました。霊安室は薄暗く、遺体は何の飾り気もないベッドの上で横たわっていました。ご家族がその亡骸を確認すると、武はまるで笑っているようだと口々にしたので、線香をあげる順番がまわってきた時に大貫さんの表情を確認しました。すると、冷たくなり硬直した唇が唾液の欠如により前歯の途中で止まり、口全体が少し歪んだ三角形をしていました。大貫さんの顔をしばらく眺め、そして安倍英のような医者や厚生省官僚、さらには製薬会社、政治家、そして最後に大阪薬害エイズ訴訟原告団団長(当時)の家西悟さんが土下座して謝罪する旧ミドリ十字・製薬企業幹部を前に烈火の如く怒りながら罵声を浴びせる風景といった、運動に纏わる全ての記憶、感情、そして情景が一つに混在するのを感じました。
大貫武という名はペンネームですが、本人に聞くと「武」は安倍英の「たけし」からとったもので、怒りを自らに刻みつけると同時にいつか復讐を果たしてみせるといった凄まじい決意のあらわれでした。彼個人の話であれば、大貫さんを最初に紹介してくれた山下柚実さんというジャーナリストがいまして、彼女の方が正確にそして深く説明できると思います。ただ、わたしの限られた理解でも人がその肉体と精神の内に許容できる憎しみといった「闇」がいかに巨大で、そして執拗かを大学生の身でも充分感じたように思います。この憎しみを消すためには「究極的に」何が必要とされているかはその頃より薄々気付いていました。無論、現実がそれほど白黒していないことは理解していますが、人類の中には悪が存在し、大貫さんのような非力な人間がどのようにして正義を勝ち取るかといったテーマは生き続いているように思います。
そんな凄まじい怒りを感じながらも、その怒りに自分の人生が支配されることを大貫さんは極度に嫌っていました。何よりも、残された人生が限られているとなると、人生を狂わされた加害者を恨み塞ぎこむことで、残された貴重な時間までもが彼らに搾取されてしまうというのが大貫さんの独特な持論でした。これは理屈的には分かりやすいですが、行うのは至難のわざであり、大貫さんはその思想を実践したからこそ凄かったわけです。彼の活躍は本にもなっていますが、わたしが病院ではじめて会った時も「あのさ、なるべくいまの人生を楽しみたいんだよね。アルファ・ロメオ買ってさ、そして念願の雑貨屋をはじめたいから、その資本金も手に入れたい」と前向きな話ばかりをされ、およそわたしがそれまでにあった薬害・性感染エイズの人達とは全く違い、びっくりしたのを憶えています。特に薬害エイズの場合は国と製薬企業を相手取った訴訟の真最中だったため、原告が発言する際は弁護士と相談の上、なるべく裁判に支障の無い、またはそれを後押しする発言が望まれたのは容易に想像がつくわけです。いわば、これは社会的正義を原告達が勝ち取るための政治的な判断(集団の論理)に基づく行動といえますが、国と製薬企業にめちゃくちゃにされた人生を嘆き、そしてうらみ続けるといったメッセージがいわば妥当とされました。しかし、大貫さんはそのような政治的判断に基づく行動に従い賛同しつつも、同時に前述したそういった怒りや恨みを感じる時間がさえもったいなく、もしそのような負の感情が存在せず、ありのままの自分であれば何をしたいのかを必死に考え実現しようと奔走したのです。
その姿にわたしは激しく敬服したわけです。社会的正義が直接的な怨恨と裁判という形だけでなく、加害者の束縛から完璧な自由を勝ち取る戦略を通してでも実現できると信じさせるほど、彼の生き様は激しく、そして力強かったのです。完璧な自由への執念は実践に移され、大貫さんはTBSの懸賞番組に病身ながら出演し、見事、幼少の頃からの念願だった車と雑貨屋の資本金を手に入れたのでした。また、そのテレビ番組が自分の貧乏や不遇を披露して、会場の審査員より同情を買いながら賞金をもらうという作りだったため、なおさら運動・訴訟支援者、関係者より厳しく追及をされましたが、大貫さんも原告として座り込みや抗議集会などにしっかり参加し責任ある役割を果たしながら、上記、活動をしていたため、最後までその両方をやり通し、彼自身の生き様の支援者を拡大していったわけです。
そんな大貫さんは結局、若干30歳でたくさんのことをなし遂げながら、そしてあまりにも多くのことをやり残し、この世を去りました。残された高校時代からの親友林さんや彼の弟分とされる同じ原告の桜屋君もその思想を踏襲し、一生懸命人生を前向きに生きようと努力をしていますが、やはり彼に関わったすべての人同様、何か嵐が通り過ぎたような脱力感と精神的な支柱を失ったような空虚感をいまでも引きずっているのも事実です。そんな大貫さんはチャレンジ・エイズ95に講演者として参加し、上記したその思想を観客に必死にぶつけたわけです。大貫さんが亡くなった後、桜屋君が継続してチャレンジ・エイズに関わってきているように、この催しは大貫さんの生き様を語り継ぐことのできる数少ない場所と言えます。大貫さんのメッセージは、感染ルート(薬害・性感染)の違いや、同性愛や異性愛、外国人や日本人、エイズ問題だけでなくすべての差別や社会問題に通じる真理を秘めています。それはいうならば、自由に自分らしく生きることが絶えず集団の意向と対立しながらも、その自由を勝ち取るためには必死に闘い続け無ければならないことを教えてくれているわけです。いうまでも無く大貫さんの人生は最後の瞬間まで闘いの連続であり、それはクーンそしてチャレンジ・エイズが今後同じように社会的正義を勝ち取ろうとする上で、大きな成果をあげるために時には政治的判断を採用しても個人の自由を少しでも良くしようと努力し続ける勇気を止めてはならないことを教えてくれているように思います。
山本吉国 略歴
昭和49年生まれ。附属高等学院より早稲田大学政治経済学部政治学科入学。在学中、学生組織クーンを立ち上げる。エイズ問題に取り組み早大総長賞受賞。卒業後、(株)電通に入社、営業局に配属。大手外資系企業担当として5年間勤務。平成15年、米国ジョージタウン大学院進学、米国家安全保障研究修了。平成16年、米国シラキュース大学院進学。奨学金研究生として米医療行政研究修了。現在、米政治広報ロビー会社勤務。最近では拉致被害者家族会、横田早紀江さんが証言をした米下院国際関係委員会公聴会を手がけた(写真参照)。米国ワシントンDC在住。
産経新聞社提供